「新雑賀町」と云う町名が出来たのは、大正10年(1921)1月18日のことです。
江戸期の文久年間(1861)に それまで雑賀町に住んで居た足軽鉄砲衆が この地に移されたことから「新鉄砲町」になり、明治には「松江分新丁」と呼ばれていました。雑賀町と同じく足軽の町として出発したため、区画整備もされ閑静な住宅街です。
古くから文武を重んじる風土は受け継がれ、明治には渡部寛一郎と云う人が「私塾 普通学舎」を設立し、中学校や師範学校へ進学を希望する生徒達が準備教育を学んでいました。
この建物の裏門 かつて寄宿舎もあったとの事です。
近くには、昭和5年に建築された洋風建築の建物があり、今でも所有者の方が丁寧に使い住まわれています。
天神側の対岸には、松江中央幼稚園・松江中央小学校があります。
ここには、かつて「松江三中」がありました。写真は松江三中の初代校舎。この建物は、それまでの「松江工業高校」だった建物をそのまま利用されていました。
新雑賀町の国道9号線沿いには、かつて大きな溝があり「津田街道の大溝」と呼ばれていました。
写真は、昭和30年代の「津田街道界隈」です。写真右側は現在の国道9号、溝の部分は現在 歩道として整備されています。
新雑賀町には、かつて小泉八雲が来松し旧制松江中学で教鞭をとっていた時、小泉八雲の日常の世話をしていた西田千太郎先生の住居が残されています。
このように、昔の佇まいの残る「新雑賀町界隈」を歩いてみてはどうでしょうか。
【資料出展】
「わたしたちのまち 朝日」朝日地区歴史書編集委員会(平成22年)
「松江市立第三中学校五十年史」(平成10年)